
初めて触れた楽器は何か
僕の音楽の原点を辿ると、それは記憶がまだおぼろげな未就学児の頃まで遡ります。
当時、祖父がお神楽(おかぐら)の稽古によく連れて行ってくれました。地域の人たちが集まる公民館、そこで鳴り響いていたお囃子の和太鼓。それが、僕が人生で初めて楽器に触れた瞬間でした。
今振り返れば、最初に触れたのが打楽器だったというのは、偶然のようでいて必然だったのかもしれません。
当時の僕を虜にしたのは、叩けば音が出るという、これ以上ないほどシンプルでダイレクトな仕組みでした。理屈ではなく、自分の動きがそのまま音と振動になって空気を震わせる。その原始的な喜びが、幼い心に強く刻まれたのだと思います。
その時の感覚がずっと残っていたからか、小学校の演奏会でも迷わず打楽器パートを志願しました。ボンゴやコンガに夢中になり、6年生の時には盆踊りのお囃子も担当しました。中学生の頃には和太鼓のパフォーマンスに打ち込むなど、僕の傍には常に叩く楽器がありました(和太鼓今でも叩けます!)
そうして和のリズムに親しんできた僕が、運命のドラムセットに出会ったのは、中学2年生の時のことでした。
なぜその楽器を選んだのか
運命の歯車が動き出したのは、中学2年生になったばかりの4月、昼休みの音楽室でした。
新しく赴任してきた社会科のS先生が、誰もいない音楽室でドラムを叩いているのを偶然見つけたんです。それまでバンドにも音楽にも全く興味がなかった僕ですが、楽しそうにスティックを振る先生の姿に、なぜか強く惹きつけられました。
思わず話しかけると、先生は大学時代にバンドに明け暮れていたとのこと。「教えてほしい」と頼み込むと、先生は快く引き受けてくれました。それからは毎日、昼休みになると音楽室へ通い、夢中でリズムを刻む日々が始まりました。
気づけば音楽室には自然と人が集まるようになり、先生が私物の楽器やアンプを持ち寄って、文化祭でバンド演奏をしようという話にまで発展しました。まさに映画『スクール・オブ・ロック』のような展開です。
ところが、いざバンドを組むとなった時、僕の担当は「ドラム」ではありませんでした。
集まったメンバーは僕以外、全員が3年生。先輩たちから順に「ボーカル」「ギター」「ドラム」と花形のパートが埋まっていき、1人2年生だった僕に残されたのは余り物の「ベース」でした。
こうして僕の記念すべき初ライブは、ドラマーとしてではなく、ベーシストとして幕を開けることになったのです。これこそ、今思えば「バンドマンあるある」の洗礼だったのかもしれません。
きっかけになった曲、アーティスト、友人、家族
僕をここまで連れてきてくれた恩師、S先生。先生がいなければ、今のドラマーとしての僕は存在しません。先生には今でも直接お会いして、心からの感謝を伝えたいと思っています(先生、あの時借りたCD、まだ返せてないです!)
僕のドラムの基礎は、先生が好きだったTHE BLUE HEARTSで形作られました。
「リンダリンダ」でエイトビートの真髄を学び、「TRAIN-TRAIN」で頭打ちの疾走感を覚え、「終わらない歌」で情熱的な演奏を教わりました。シンプルだからこそ奥が深い。あの時体に染み込ませたビートは、今でも僕の指先が覚えています。
時を同じくして、僕の音楽観に決定的な衝撃を与える出来事がありました。
楽器を始めたことを叔母に伝えると、彼女がかつて愛用していたX JAPANのCDやVHS、グッズを山のように譲ってくれたんです。そこで初めて目にした「X」の世界。激しさと美しさが共存するそのスタイルに、僕は一瞬でどハマりしました。僕のヴィジュアル系への傾倒は、まさにこの「始祖」との出会いから始まりました。
さらに運命的な連鎖は続きます。
S先生から「最近すごいバンドがいるぞ」と紹介されたのが、BABYMETALでした。そのあまりにエクストリームな楽曲と圧倒的な演奏技術に、僕は言葉を失いました。「自分もいつか、こんな次元で叩けるようなりたい」
当時は知る由もありませんでしたが、後にこのBABYMETALの屋台骨を支えたドラマー、前田遊野氏に師事することになるのは、もう少し先のお話。今思えば、この中学2年生の時に、僕の歩むべき道はすべて指し示されていたのかもしれません。
最初はどんな気持ちだったか / 始めた頃に苦労したこと
「早く思い切りドラムを叩きたい」
そんなもどかしさを抱えながら過ごしたのが、僕の楽器人生の序盤でした。
僕が育ったのは、都会の方には想像もつかないような深い山奥。生徒数も驚くほど少なく、軽音部なんて当然ありません。バンドを組みたくてもメンバーが揃わない、ライブをする場所もない。そんな、音楽を志すにはあまりに厳しい環境でした。
皮肉なことに、ドラムが一番好きだったのに、人前でドラムを叩ける機会にはなかなか恵まれませんでした。
中学3年生の時はギターが足りないからとギターで出演。高校2年生でようやく掴んだ文化祭ライブでも、メンバーの兼ね合いで結局ベースを担当。そして高校3年生、自分でメンバーを集めてバンマスを務めた時でさえ、やはりギターが不在で、泣く泣くギターを持ってステージに立ちました。
練習自体は大好きだったので苦ではなかったのですが、とにかく「本職のドラムで表現できる場」がないことが、何よりの苦労であり、もどかしさでした。
さらに高校時代は、競泳選手として全国レベルを目指す過酷な練習の日々でもありました。
毎日プールで限界まで追い込む生活。楽器に触れたくても距離を置かざるを得ない、物理的な時間のなさは本当に辛かったです。けれど、どんなに水の中で自分を追い込んでいても、頭の片隅にはいつも音楽がありました。
今思うと、その楽器のどこに惹かれていたのか
シンプルに一瞬で上手になれたこと?
アスリートだったからか、楽器が体に適合した感じ?
今思えば、僕の体がドラムという楽器に「適合」していく感覚が、何よりも快感だったからです。高校時代まで競泳で全国を目指していたアスリートとしての身体感覚が、ドラムを叩く動作と見事にリンクしました。シドのゆうやさんも仰っていましたが、「スポーツができる人はドラムが早く上達する」というのは、僕自身も身をもって実感したことです。自分の重心をコントロールし、パワーを効率よく楽器に伝える。その感覚が掴めた瞬間、一気に上達の階段を駆け上がることができました。
もちろん、そこには「鬼のような練習」もありました。けれど、それが全く苦ではなかった。自分の成長がダイレクトに音に変わる喜びは、何物にも代えがたいものでした。
また、打楽器というシンプルな性質が向いていましたし、性格的にも後方支援的な動き方をするのが好きだった自分にドラマーとしての役割がマッチしたのだと思います。目立つフロントマンを支え、バンドの土台を盤石にする。そんな立ち位置で全体をコントロールすることに、僕は深い魅力を感じました。
スポーツやっててよかった。
AZ Flavorでその楽器を弾く上で大切にしていること
徹底的に無駄のない進行をサポートする。
AZ Flavorのステージは始まりから終わりまでの1ステージをまるで舞台のように、ひとつの演目として表現しています。そんな中でドラマーが出来ることはとにかく進行を妨げないこと。ドラムが止まるとみんな止まるので。
同期演奏におけるマニピュレーティングもドラマーである自分の仕事なので、ライブ1本通してどのように進めていくのか?タイムマネジメントなども自分の役割ではあります。
以前まではその辺いっぱいいっぱいでパフォーマンスの余裕が無かったのですが、今は徹底的に無駄を削ぎ落とし、システムを完璧にコントロールすることで、ようやく応援してくれるお客さんに向かって、パフォーマンスやアピールができるようになりました。
今思えば演奏系でもやることいっぱいですね。
あの山奥の音楽室で夢中でスティックを振っていた頃の情熱は、今も僕の中で燃え続けています。
